私は現実世界の言葉を使いながら、もう一つの虚構の世界を作ろうとしています。
子供達が「ままごと遊び」を好むのは、好奇心を持って世界を知ろうとするということの中で、想像の空間を構築しているからかもしれません。
子供は、親や先生、電車の運転手、若しくはテレビドラマの登場人物等を真似します。
日常の何かの場面を目にしたら、「自分もやってみたい」という衝動が自然と湧き上がるようです。
私も幼い頃、そうした想像の世界に結構没頭していました。
様々な場所に自分がいると想像することから始まり、段々心の中に想像の世界が形作られていきました。
現実世界を理解しながら、その想像の世界を同時に築いていく感じで、注意散漫だった子供の頃の私は凄く集中していました。
学校、乗り物、ニュースメディアなど、当時の私は何か興味を惹かれる物事を目にすると、それらをどんどん想像の世界にも取り込みたいという気持ちがありました。
そういう気持ちは今も変わっていません。新しいもの、面白いものに出会う度に、私はそれを理解したい、考えてみたい、想像の中でも構築したい感覚があります。
例えば、最近憲法に関わる内容を触れたことで、「東洋島」の「自治憲章」についてもより明確にデザインしてみて、描き出そうとするようになりました。
比較して気付いたのは、この想像の世界は、所謂小説等、物語の為の「世界観設定」とは異なるということでした。
ストーリーを語る目的ではなく、寧ろ私の日常的な思考の色んな側面の延長のような感じで、不規則で自由な空間なのです。
想像の中で、私は身体にも、身分にも、更に時間にも縛られていないと感じています。
この想像世界は、もう私の心の故郷のようになってきました。
言葉は私たちの社会生活に秩序を与える枠組みですが、その枠には必ず空隙があり、名付けられず、見過ごされ、排除されてきたものが潜んでいます。
言葉は単なる伝達の道具ではなく、隙間と境界がある社会的構造だと思います。
私は、現実の言葉、制度、記号を虚構の中へと引き込み、その構造の限界と縫隙を探り続けています。
こうした作品は主に「各国国際連盟(DUFRECKTS)」と「スタリア及び諸国」に分類できます。スタリアという国とその周辺は、小学生であった頃から空想し始めた、私の脳内にある「心の居場所」のような存在で、私と共に成長してきた世界観です。
スタリアは自分にとってプライベートな側面が強く、詳細な情報はあまり表の作品に直接登場させていません。
代わりに、スタリア領の東洋島という自治領土の名義を借りて、間接的に現実世界と関わっているような形となっています。
一方、「DUFRECKTS」は、様々な政治体制を持つ国々から成る連合で、比較的後になってから私が想像したものであり、スタリアに比べてより現実社会に開かれた感じの世界です。
幼い頃に小さなノートに描いていた落書きと比べて、今ではキャンバスなどを通して、より自分の思いに近い形で想像の世界を表現できるようになりました。
キャンバスの上で描くとき、その面は完全に、社会的構造の余白において私が自由に動かせる領域となります。
その過程の中で、私が求めているのは、壮大に何かしらの世界を掌握しよう、或いは激しく何かを転覆しようとした訳ではありません。
想像世界と地球の関係は、私と現実社会との関係と同じく、分離している訳ではないと思います。
私も、東洋島も、他の私が想像した所も、社会構造や言葉によって構築されている存在ですが、その言葉には必ず境界があり、隙間があります。
私は構造の隙間を見つめ、その中に開かれた可能性を保ちながら、固定されなくても生き続けられるようにしたいです。
黄俊言
地球公用暦二〇二五年六月三十日